人生 あ・ら・か・る・と 年齢を重ねてきた今、昔から大切にしていた記録、メモ、本、レコード、などから、これまでの人生を振り返るエッセイのコーナー「人生あ・ら・か・る・と」です。 掲載は月1回1日。筆者は4部のKOさんです。どんな話題が出てくるか、お楽しみください。 2025/05/02 第4回 「齋 藤 塾」 …後編… そもそも、齋藤塾へ通う事になったのは、2才上の兄が通っていたからである。 彼は長男で、母親は年齢が近いのでという理由だったと思う。 昔、母親が女中奉公していた松城町の宮本家(当主の宮本甚七氏は、日本形染の創始者で遠州の繊維業界に多大な貢献をした方で下池川町の天林寺に銅像が有る)の娘さんが齋藤先生と知り合いで、その縁で兄は娘さんの家へ寄宿と云う形をとり、6年生の3学期より元城小学校越境入学させ、中部中学校へ進学していた。 齋藤先生は大変博学で、度々授業を脱線して色々な話をして下さった。例えば、中国の孟浩然の漢詩「春眠不覚暁」を(寝ても眠たい春の朝、近くで鳥が啼いているわい。きのうは雨風ひどかった、花もだいぶん散ったろう。)と訳して教えて下さった。(80才を過ぎた今も鮮明に覚えている)英語の授業より面白かった。 先生は、年に数回東京へ赴き、紀伊国屋書店、洋書の丸善等に本を購入しに行っていた。 後に知った事だが、岩波書店の創業者の岩波茂雄氏と神田の古本屋で知り合って、齋藤塾を開く時、多大な資金援助を受けた由。 齋藤先生は、英語教師としては大変優秀だったと思う。只、偏見が有った。私の様に劣等生と見なされた生徒は浮かばれなかった。或る時、母親が先生に呼び出され「私も長年生徒を教えてきたが、こんな強情な子供は見たことがない」と云われたそうだ。(母は叱らなかった。何故だろう?)救われた。だって、誰が何と云おうと、やってないものはやっていないのである。屈する訳にはゆかない。 そういえば想い出した。小学校の卒業式終了後、教室で先生と生徒と父母が茶話会を行い、終了して校庭へ出たら、担任の原田先生に呼び止められ「お前の様な奴はロクな大人にならん」と云はれた。身に覚えはないが、茶話会で騒いだと思われたらしい。いつも不機嫌な白目が黄色の陰気な先生だった。 齋藤塾で私は留年させられ、2年通い退塾した。(3年になると進学のための補習授業が始まったため)兄は、順調に3年間通塾し、浜松西高校へ進学した。齋藤先生は母親に何故浜松北高を受験させなかったのかと責められたそうだが、学校の担任から、北の下位で入るより西の上位の方がと勧められ選択したらしい。私は、浜松工業高校の建築科に何とか滑り込んだ。齋藤塾の卒業生は3000人位いるそうで、元浜松市長二人、東大卒も多数いて、大学教授、政治家、会社社長等になった人も多数いるそうである。 今想っても、ホロ苦い気持ちである。 ……終わり…… 和合町在住 K・O 記事一覧を見る