人生 あ・ら・か・る・と 年齢を重ねてきた今、昔から大切にしていた記録、メモ、本、レコード、などから、これまでの人生を振り返るエッセイのコーナー「人生あ・ら・か・る・と」です。 掲載は月1回1日。筆者は4部のKOさんです。どんな話題が出てくるか、お楽しみください。 2025/06/01 第5回 「兄とピカ荘」 ~前編~ ピカ荘は、東京都三鷹市牟礼と云う所に有ったアパートだった。(アパートの名は画家のピカソを想定したか) 2才上の兄は、絵描きを目指して、東京芸術大学の油絵科を2年連続受験した。合格するには大変な倍率で、試験は3回あり、学科、デッサン、油絵。1年目は学科で、2年目は、デッサンで落ちた。2年目に武蔵野美術大学の日本画科の補欠試験に合格したが、一年足らずで辞め、そこで暮らしていた。 かつては軍需工場だった2階建の古びたアパートで、芸術家を夢見る若者が6人位住んでいたと思う。兄がそこに住む様になったのは、高校の絵画部の先輩が退去し、譲り受けたらしい。 兄は創業間もない「大和書房」の月刊誌「青春の手帖」のカット漫画を描き、駅のラッシュアワー時に「押し屋」と云って、乗客を無理矢理電車に押し込むアルバイト、店の開店時の宣伝プラカードを持って街を歩くサンドイッチマン、「金融経済新聞」の広告取りなど、色々なアルバイトをしながら生活をしていた。サラリーマン家庭で、子供6人、父母、祖母の9人家族では、仕送りする程の余裕はなかった。私は働く様になって、毎月家族の近況を書き、2千円封筒に入れ援助した。 高校2年の春休みに、訪ねていったことがある。兄は事前に葉書に東京駅の地図を描いて送ってくれた。其の地図が誠に判り易く、東京駅には出口が2か所有り、丸の内側、八重洲側、それぞれに北口と南口の出口が有り、新幹線のホームへ降りてから、矢印で丸の内側の南口のポストの所迄示されていた。そこへ、指定された時間に着くと、兄が迎えにきてくれた。中央線で吉祥寺まで行き、そこから井の頭線に乗り換え、三鷹台と云う駅で降りたところに「ピカ荘」はあった。 ……… 後編は翌日6月2日の掲載となります……… 記事一覧を見る