人生 あ・ら・か・る・と 年齢を重ねてきた今、昔から大切にしていた記録、メモ、本、レコード、などから、これまでの人生を振り返るエッセイのコーナー「人生あ・ら・か・る・と」です。 掲載は月1回1日。筆者は4部のKOさんです。どんな話題が出てくるか、お楽しみください。 2025/06/02 第6回 兄とピカ荘 ~後編~ 兄の部屋は2階の八帖位でドアを開けると左側に2段ベッドが有り、右の方の中央に折りたたみ式の座卓が有り、壁付けでリンゴ箱を2段に積み重ねた本棚、食器入れになっていた。 貧乏暮らしだから、食器と云ってもどんぶり2つ、小皿、大皿、味噌汁椀位。本は古本屋で1束いくらで買ったらしい。小説新潮、文春、オール讀物等の月刊誌、煮炊きは石油コンロでしているらしく、部屋中石油の臭いがしていた。 窓は南と西にあった。炊事、トイレは共同で風呂は無かった。 何を食べたかは覚えていないが、朝は納豆売りから納豆を買い、藁で包まれたツトから出し、どんぶりに移し、醤油をかけ、かきまわし食べた。当時は今の様にパックに入り、カラシ、タレ付の物など無かった。 新参者の兄は、共同使用する場所の利用に大変気を遣っていた。他の住人の使用中は絶対に行くなと釘を刺された。 社会人になってからも一度訪ねた事が有った。其の時は、長期のアルバイトをして、お金を持っていた様で、「今日はお前に寿司をおごってやるぞ!」と吉祥寺駅前の寿司屋のカウンターに座った。当時(昭和30年前半)の吉祥寺駅前は舗装もされていない何処にでも有るような駅だった。何しろ、田舎育ちで寿司屋など入ったことがないので、自分で注文するのも初めて。判らないまま適当に「カツオ」「マグロ」「エビ」と注文した。兄はと云うと「カッパ」「かんぴょう巻き」「カッパ」と注文した。兄は、店を出てから「お前は高いものばかり注文しやがって!」と怒った。多少のお金は持っていただろうが、懐具合が心配でヒヤヒヤしていたのだろう。 兄の卒業した高校の絵画部では、先輩に東京の安アパートで貧乏暮らしをしている人が居ると代々云い伝えられており、夏休みや冬休みに、2~3人で訪ねてきた事が何回かあったと兄が云っていた。 そんな兄も29才で結婚し、浜松へ戻り、昼間は子供向けの画塾、夜は画材店の画塾で教えながら生活していたが、突然の病気(劇症肝炎)で道半ばで、15点余りの絵と、妻、息子1人を残してこの世を去った。 父親が「親より先に死ぬ奴があるか!」と大粒の涙をポロポロ流した。 父が泣いたのは後にも先にもこれ1回だけだった。 辛かった。 50年余り前のことで、今存命なら85才になる。 和合町在住 K.O 記事一覧を見る