人生 あ・ら・か・る・と 年齢を重ねてきた今、昔から大切にしていた記録、メモ、本、レコード、などから、これまでの人生を振り返るエッセイのコーナー「人生あ・ら・か・る・と」です。 掲載は月1回1日。筆者は4部のKOさんです。どんな話題が出てくるか、お楽しみください。 2026/06/01 第26回 「祖母 その1」 亡くなって、半世紀以上経つが… 確か没年齢は78歳だったと想う。 「80歳まで生きたい」と云っていたが、叶わなかった。 我が家は当時9人家族だった。父母と姉、兄、私、妹、弟2人とおばあちゃんと呼んでいた祖母との生活だった。おばあちゃんと云っても、血の繋がりは無い。 祖母の生まれた所は、現在の天竜区雲名(ウンナ)で4人姉妹の一番上だったらしいが、詳しく聞いたことが無いので、定かではない。幼い頃に、奉公に出され、愛知県の豊川市に長く住んでいたらしい。(多分、親類縁者が居て結びつきが強かったのだと思う。)縁あって、湖西市新居の祖父(私は会ったこともなく、年齢差が有ったのかもしれない)と夫婦になり、現在の浜松市中央区海老塚町で、小さな木賃宿(きちんやど:行商人等が泊まる安宿)を営んでいた。子供が無く、母親が養女として入り、暫くして父親が婿養子として迎え入れられた。おばあちゃんの話に依れば、たまに相撲取りが地方巡業で浜松に来て、下ッ端の力士が泊まり、相撲甚句を唄っていたそうで、それを覚えていて披露してくれた。「タンス・ナガモチ・ハサミバコ・コレホドモタセテヤルホドニ・カナラズモドッテ・クルデナイ」(東北地方の民謡の長持唄の一節だと思う) 祖母は、読み書きができなかった。学校へ行っていなかった。 或る時、新聞を持って来て、「これは何と読むのか」と聞かれたが、生まれつき視力が弱いので、よく見えずに聞いたのかと其の時は思ったが、後で判ったが、読めなかったのだ。弟が其の事に触れると、「おばあちゃんは、学校へ行っていないんだ!」と烈火の如く怒った。 当然である。本人にしてみれば、一番触れられたくない事だから。 それでも、後年兄からスケッチブックを貰い、手習いをしていた。 私が小学校へ入学したのは、昭和24年の4月で、前年の秋に引っ越してきて、友達もできず、学校に行くのが不安で辛かった。(終戦後の混乱期で幼稚園など無かった。)おばあちゃんは私を背負い、裏道を通って通学路と合流する所まで送ってくれた。別れ際に「ここからは、皆と一緒に歩いて行けよ」と励ましてくれた。 雨が降り出すと、傘を持って迎えに来てくれたが、其の格好が凄い。破れた蓑笠に蓑を着て、父親のお下がりのダブダブの長靴を履いて、木造平屋建ての校舎の構造など判らないから、 手当たり次第にガラス窓を開け、授業中だと云う事も判らず大声で「1年何組の○○はいるか!」と叫ぶ。生徒が一斉にドッと笑う。先生は、突然の事態に右往左往。有り難いが恥ずかしかった。 昔は年末の29日か30日に、餅つきをした。私が中学生になる頃から、餅をつくのは2歳上の兄と交互に、餅の手返しは母と祖母で行った。ある時、兄が真っ赤な顔をして振り下ろした杵が誤って木の臼の縁を直撃。欠けてしまった。「餅はこっちだ!」祖母が餅を叩き叫んだ。餅の手返しは上手だった。「ソレコイ!ヤレコイ!」と掛け声をかけながら調子を取ってくれた。また、ついた餅を延ばし台にのせて、薄く延ばしたり、餡を入れて丸めて、大福餅にする手際もよかった。奉公先で覚えたのだろうか。感心した。 ~次回に続く~ 和合町在住 KO~ 記事一覧を見る