人生 あ・ら・か・る・と 年齢を重ねてきた今、昔から大切にしていた記録、メモ、本、レコード、などから、これまでの人生を振り返るエッセイのコーナー「人生あ・ら・か・る・と」です。 掲載は月1回1日。筆者は4部のKOさんです。どんな話題が出てくるか、お楽しみください。 2026/10/01 第32回 「静岡県立浜松工業高等学校」その1 昭和33年(1957年)の4月に、私は同級生3人と共に、浜松工業の建築科に入学した。 他に、工業化学科と紡織科にひとりずつ入学した。 今は初生町に校舎があるが、当時は寺島北にあった。跡地は現在団地になっている。 通学は遠州鉄道の馬込駅(今は無い)で降りて国鉄のトンネルを潜り、南へ向かい徒歩で20分位かかった。(大雨が降るとトンネルが水浸しになり苦労した。) 当時、工業高校の学科は7科有った。機械科、電気科(この2科は成績の良い生徒が多く、特別だった。)工業化学科、建築科、土木科、木材工芸科、紡織科の7科だった。 同級生は56名おり、内訳は浜松市内の生徒が3割位で、残りは磐田、袋井、掛川、菊川、浜岡、森、浜北、細江等、郡部の生徒で占められていた。浜岡からの生徒2人は、通学が無理なので学校の寮に入り、そこから登校していた。 校門を入ると、右側に忠霊碑、左側に大屋根瓦葺の講堂が有り、全校集会の時に使われ、放課後には吹奏楽部、卓球部、演劇部が使っていた。南側にグラウンドが有り、グラウンドを見渡す様に、瓦葺き平屋建ての長い職員室が有り、普通科目を教える先生達、校長室、事務職員室になっていた。職員室の奥に木造2階建て瓦葺の校舎が並んで建っていた。 専門学科を教える先生たちの職員室は、各学科の1階に有り、先生4~5名と実習科目を教える補助職員1~2名、科長1名で構成されていた。 毎日、7時間の授業を受けた。1年生は一般科目の授業が多かったが、2年生になると専門科目が多くなり、週に1日全て製図の時間が有り、3年生まで続いた。 製図室が有り、机の上の前方に柱位の台を置き、傾斜を付けて製図板を置き、長いT型定規、三角定規、雲形定規、分度器、コンパス等を使った。 製図室は、天井に蛍光灯が点いているが、手元には照明は無く、雨降りは薄暗く、2年生になると8割位の生徒がメガネを使用していた。 最初の頃は、製図帖を見て写すだけだが、其の内、住宅の設計をし、図面に起こす様になり、平面図、立面図、断面図、祥細図、透視図を書くようになった。(新建築と云う月刊誌が有り、購読し参考にした。)先生は常にいなくて、時々見に来る程度なので身が入らず、遊んでいる生徒が多かった。私は図面を書くのが遅く、時間迄に書き終えられず、提出日は次週の製図の時間までなので、家に持ち帰り書いていた。(常に製図を書くのに追われていた) 1年生の時はケント紙と云う厚い紙に書いて、カラス口を使って墨入れをするのだが、ボタリと落ちたりして大変苦労した。 2年生からは、トレーシングペーパーと云う薄い紙に書くのだが、天候によって微妙に伸び縮みするので、湿度の激しい時は大変だった。 それと、2年と3年の担任だったM先生に「生きた線を引きなさい!」と厳しく指導され、実線は中間の太さ、断面線は太く、寸法線は細くと教えられ、今でも覚えている。 来月に続く 筆耕:和合町在住 KO 記事一覧を見る