<第十一回 「『橋の名前』の謂れ(いわれ) 」 >

■今回の(謂れ/いわれ)は 町内を流れる川に架かる橋についている名前の由来です。
◆町内には <段子川>と<権現谷川>の 二つの河川が流れているものですが
 今号は 権現谷川の最も上流部に位置して架かる 二つの橋の名前の由来話です。

①先ずは 一番上流部に架かる橋で その名前は「水神橋/すいじん ばし」と言います。

●この橋の名の由来は昭和40年頃までは権現谷川の水源地の一つとして こんこんと湧く
 泉が有り その泉の畔に <水神の祠> が建てられ祀られていたものです。
★三方ヶ原合戦の折 徳川、武田の両軍馬にこの泉の水を飲ませたとも云われているものです。
 その後、時代を経てこの地も河川改修と宅地造成に伴い架けられた橋(鉄筋コンクリート製)には
この逸話経緯より「水神橋」の史跡名が付けられ 橋の名前プレートにその名が残るものです。
(古来この場所には 橋の存在は無かったものです 今も橋を渡っても行き止まりです)
《良くぞ この歴史経緯より 橋の名として史跡にちなみ名前を付けてくれたものです》
残念な事に 泉は今は枯れてしまいその形跡もありません
(この付近の川域も普段は水の流れもない水無し川です)
★開発以前この水神橋の上流には 3m程の高さから堂々と流れ落ちる滝が有り
その滝つぼの水は碧く澄んで居て 現況よりはとても信じられない状景でした。
<水神の祠>は現在三嶋神社境内に移され「水神社/水神様」として祀られているものです。


②次に「水神橋」より400メートル程下流に架かる橋の名前は「鳥飼橋/とりかい ばし」と言います。

●この橋は 現在は車の行き来する交通量の多い橋ですが 昭和の時代迄は昼なお暗く
寂しい竹藪の中に小さな板橋がひっそりと架かって居たものです。
(荷車など通れず 歩行者のみ)こちらも現況からは とても想像出来ない風景です。  
●橋の名前の<鳥飼>はこの地を治めていた旧士族の「鳥飼氏」のお屋敷が川の傍に有った
事より付けられたものです。すぐ近くには勝坂不動尊跡が有り 今は亡き地域の古老よりは
「不動橋」と名付けたかったとの話も聞いたものです。(既に別の橋名に使われていた)
ちなみに この鳥飼氏は幕臣の旗本でこの地に屋敷を構えたが当人は一度も来訪せず
(江戸屋敷に住んで居たとの事)で橋に名前を残したが橋の西北台地は声の届く範囲は全て
鳥飼氏の土地だったが その後宮内省の御用林となり明治期に開拓者に払い下げられた。

●橋の名前にもそれぞれ『謂れ事由』が有り 普段何気なく渡っている橋にも 歴史有りです!
権現谷川に架かる橋の数は富塚町内での段子川合流地点迄には18箇所に橋が架かって
いるものです(権現谷川の最も大きな橋は和合湖東線に架かる橋で名前は<和合橋>です
名前のない無名橋が2つ有るものです(平成23年調べですので その後増橋しているかもです)
川筋を散策の折 橋の名前を見つけながら歩くのも楽しいものと思います。
機会が有りましたらば 段子川に架かる橋名編もと思います。

8-1-2松本貞司 記

 
水神橋 鳥飼橋