<第十二回 「和合 五村」>(最終回)

◆今号で史跡散歩路は最終回となりますので 今回は西和地区を含めた和合町内には
明治期に五の村が存在し 各村には今も祀られている鎮守の「氏神社、氏神様」が
それぞれ有り、その傍らを流れる川と神社の話です。

●町内出身者のご年輩の方は この村名(字あざ名)を生活地域名として馴染み呼ばれていたものです。(郵便物の宛先名や 小学校の運動会にはこの地域(字別)対抗リレー競争が行われ
各村、字でチームが作られ華やかに行われたりして 昭和の30年代まで使われたものです。
《字あざ とは=江戸時代から続く地域(和合町内)の区画名の一つで大字おおあざと小字こあざが有り、一時 字=村名ともなったが役場等の行政役所は無かったものです》
その五つの村の名前と氏神社の傍らを流れる川
① 「馬生村/ばしょう むら」の「大山祇神社/おおやまずみ じんじゃ」と「段子川」
② 「馬舟村/まぶね むら」の「三嶋神社/みしま じんじゃ」と「権現谷川」
③ 「寸田ケ谷村/すんだがや むら」の「三社神社/さんしゃ じんじゃ」と「新川」
④ 「不遣村/やらず むら」の「厳島神社/いつくしま じんじゃ」と「新川」
⑤ 「富新屋村/とみあらや むら」の「三社神社/さんしゃ じんじゃ」と「中途川なかどかわ」

◆五つの村の氏神社にそれぞれに共通している事は 神社の傍には小川が流れている事です。
その①の大山社と②の三嶋社と川については 散歩路の第一話と第三話及び第四話目にて
ご紹介とさせて頂きましたので そちらを関連ご参照にして下さい
西和自治会地区の③の寸田ケ谷村と④の不遣村の氏神社の横を流れる川は同じ新川です。
その起点は自衛隊基地に接している「不遣やらずの池」が水源地でここから流れ下るものです
その源流地の森に「厳島神社」が建立されて居るものです。
《不遣の池には新川起点の標識も有り神社は白大蛇の伝説や、この脇を通る和地往還道には茶店が一軒有り 昔の旅人達の一服処だったとの事です》 
◆この川筋を500メートル程下った所に有るのが ③の寸田ケ谷村の「三社神社」です。
(ちなみに国土地理院の地図表記上では佐鳴湖はこの新川の一部となります)
<寸田ケ谷村>の名前の謂れの一つとして この川下、富塚の豪族の「寸田首人きだのおびと」から
地名が付けられたとの説もあるものです。<寸田首人の塚が富塚町のお寺に有るものです>
◆⑤の<富新屋村>の氏神社も寸田ケ谷村の神社と同じ名前の「三社神社」です。
(地元の人は この地域を通称 新屋/あらや と呼んでいるものです)
神社の宮前には「赤い欄干に擬宝珠/ぎぼし」が乗っている富新屋橋が神社境内ではなく
大型車も通る一般市道の中途川に架かっているものです。
この川の源流点は、近くのオートレースの場の競争路の中の楠の木の根元からこんこんと湧き出る泉が有ったものです、楠の大木はレース観戦の邪魔になる事から枝払いされ
現在は大分小さくなっていますが 今も緑の葉を茂らせて健在です。
◆②と③と④の 三っつの神社の鳥居は共に「明治44年10月建立」の同型で同時期に建てた
ものと思われます 今から100年以上も前 当時の貧しい村人達がお金を工面し出し合って
建てた苦労が偲ばれます。
残念な事に③の三社神社鳥居は先年の台風による倒木落下にて鳥居が倒壊してしまい
現在は新設の鳥居となっているものです(倒壊前の鳥居写真は幸いにも有り)
◆<不遣村やらずむら>は昔から人家 軒数が少なく、現在は寸田ケ谷の一部となっていて
既にこの地域で住む人達も 不遣村が存在した事を知らない人が多い。
又①~⑤の 五村以外にも
町内の権現谷には 地域の氏神様の「山神社」が有るものです。

◆今はまぼろしの村名/字名ですが 旧村名、字名として 馬生・馬船・寸田ケ谷・(権現谷)は
今もバスの停留所名として使われているものです。
(昭和の一時代、浜松市営バス「佐鳴湖寸田ケ谷線」には<新屋>の名のバス停も有ったものです)

★今号で「町内史跡の散歩路」のお話は終了です。 
 天気の良い日にでも 和合町 旧五村の氏神様を訪ね歩いて見るのは如何でしょうか

散歩路一年間 お付き合い有難う御座いました。

8-1-2松本貞司 記